今の教育について思うこと

急速なAIの発達をはじめとする目まぐるしいテクノロジーの発達や社会の変化に伴い、従来の教育システムでは対応しきれない課題が浮き彫りになっています。私自身、教育に関わる中で、今の教育課程の内容が、子どもたちの将来にどこまで役に立つものになるのか、教育機関が担うべき「学力」とは何なのか。常に自問自答しています。そんな中、子どもたち一人ひとりの学びが本当に最適化されているのか、学校という場がすべての子どもにとって安心できる環境になっているのか、常に己に疑問を感投げかけながら仕事をしてきました。
言うまでもなく、画一的な教育は、子どもたちの多様な能力や興味を活かしきることはできません。すべての子どもに同じカリキュラムを押し付けるのではなく、一人ひとりに合った学びの形を模索する必要があります。そのためには、よりICTを活用するなどして個別最適化学習を進めることや、プロジェクト型学習を取り入れ、個人の興味と実社会の課題がつながる学びをデザインすることなどが考えられます。また、学校の閉鎖性を取り払い、地域社会と連携しながら、学校の外にも学びの場を広げることが重要です。
また、学校現場で働く教師の負担が大きすぎることも、見過ごせない課題です。教師自身に活力がなく、人生の醍醐味を感じられていない状況で、子どもたちを幸せな人生へと導くのは難しいと考えています。これは現代の学校現場の構造上の問題ではありますが、働く教師自身が自らのウェルビーイングを追求し、自分自身をケアしていこうとする工夫の余地がないわけではないと思っています。そういう意味で、自らが置かれた環境を嘆くのではなく、そこで何ができるか、その状況で自分らしく輝くためにはどうしたらいいのか、教師自身が向き合っていくことが大切だと思います。
さらに、日本の教育は依然として受験を中心に進められており、創造的な学びの機会が不足しています。探究学習やSTEAM教育を積極的に取り入れ、思考力や表現力を重視する評価制度へとシフトする必要があります。子どもたちが「答えのある問題」だけでなく、「答えのない問い」に向き合い、自分なりの答えを見つけていく力を養えるような学びを広げていきたいと考えています。少し前に「問題解決能力」という言葉がもてはやされましたが、私はその時から、個人的には問題解決能力ではなく「課題設定能力」の方が重要だと考えてきました。というのも、問題解決は受動的な取り組みであり、課題設定こそが能動的な取り組みであると思ったからです。そして、能動性こそが学びの最重要の要素と考えていたからです。AIがほとんどの問題を解決できることが実現しつつある今、この「何を問うか、何を課題として設定するか」に力点を置く自分の考えはさらに重要度を増してきていると感じています。
また、現代においてより一層気を遣うべきことに、子どもたちの心のケアの問題があります。多様な個性が輝く市民社会を社会の実現を目指す市民教育においては、マイノリティな個性やマイノリティな意見、マイノリティな立場に十分な配慮がされなければなりません。学校は学びの場であると同時に、子どもたちが安心して過ごせる居場所であるべきです。主権者教育が叫ばれる学校においては、私たちが目指す社会の縮図としての市民社会の教育を進めていかなければなりません。
最後に、目の前の子どもたちが自分らしく学び、成長できる環境を実現するために、自分が大人として輝くことです。
子どもたちが憧れる大人の存在を示すことは万言の教育よりも価値があると考えます。
私たち大人が、それぞれの立場で自分にできること、一歩ずつ取り組んでいけたらと思っています。
荒井 顕壱